周将殷伐
 「五星聚井」より854年前,同じ月日の同じ時刻に同じ方向で 5惑星集合が起こっていた。 惑星たちは7°の範囲に収まるという,BC3000年から6000年間で3番目にコンパクトな惑星会合である。 しかも日没後1時間余,西の空かに座に見えたはずで観望条件は非常にいい。明るい星のないかに座に5つもの惑星が集合したのだから,多数の人の目に留ったことだろう。BC1059年5月末,時は殷末,酒池肉林などで悪名高い暴君,王の世であり,西方では未開の蕃国といわれながらも周が次第に強大になりつつあった。 後世の儒家から聖君と讃えられた周の文王は一時紂王に捕らわれ入牢されるが,脱出して帰国し,周は急速に膨張する。実際に殷を滅ぼすのは文王の没後, 次の武王だが,文王は晩年に西伯として大軍を率いる力を持っていた。密かに反旗を翻す準備をしていた文王は,というよりその参謀である太公望は, この夕の天象を見て天命下ると解釈し殷周革命(BC1120年代からBC1020年代まで種々多様な説がある。)を正当化するための手段に利用したと考えられよう。 いや,そこまで考えたのは後世の儒家かもしれない。この天象の記録は「史記」にはない。しかし唐の時代の占星書「大唐開元占経巻十九」の「周将殷伐五星聚於房」 という記載に対応している集合場所が房宿ではないから誤記事だと考えてはならない。「いつ,どこで」ということは忘れても,事件そのものは長く覚えているということを,現在のわれわれもよく体験するものだ。
 後世,漢の歴史家・天文官たちは殷周革命の時と秦末漢初に同じ天象が起こっていたことを見つけて,「五星聚井」は平民出身の劉邦が帝位に就くのは天命によるものだと解釈したのだろう。
 

殷滅周興の年

 ところで「大唐開元占経巻十九」によると5惑星会合は過去3回起こり,最初が「周将殷伐」時で,3回目が「五星聚井」であるという。そして,2回目については「斎桓将覇五星聚於箕」と記されている。春秋時代(BC770〜BC450ころ)に落ちぶれた周の王室を担いで諸侯の盟主になった「覇者」が5人いて,その最初が「斎の桓公」だそうだ。斎は山東半島を本拠地とする国で,初代は太公望といわれる。周室や諸侯が桓公を覇者として認めたのはBC660年頃という。紀元前7世紀の5惑星会合は,BC661年1月にしか起っていない。会合の場は箕宿ではなく,いて・やぎ座であるが,彼が「将に覇たらんとする」時期にはよく合致している。

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