熒 惑 守 心
 
 惑星(火星)はその赤い色から不吉な星とされてきました。特に火星が心宿(アンタレスあたり)で順行・逆行を繰り返してうろうろする現象は熒惑守心と呼ばれ,戦乱が起こる,君主の身に異変が起こるなど不吉な予告と言われてきました。『宇宙からのメッセージ』(斉藤國冶著)には『史記』『漢書』をはじめ数々の天文志の記述をもとに,戦国時代から明時代まで25の例が挙げられています(ただし,そのうち5例は不発ですが)。
『史記始皇本紀』に始皇帝没年1年前の何やらアヤシイ天文事件が記されています。
三十六年(BC211年)熒惑星が,心星の宿るところに止まって動かなかった。星が東郡に落ちて石となった。
 この事件は始皇帝の死を暗示するように書かれています。翌三十七年(BC210年)始皇帝は末子の胡亥(=二世皇帝)・宦官の趙高らを従え大規模な巡行に出かけます。会稽山(かいけいざん:浙江省)に赴き自分の偉業を讃える石碑を作らせて禹に報告したり,瑯邪(ろうや:山東省)では自ら大魚を射たりしましたが,帰路病に倒れ七月丙寅の日(=9月10日)に亡くなりました。この年火星は2月~7月心宿(さそり座西部)で徘徊し,4月中旬(逆行)にも7月中旬(順行)にもアンタレスに接近し,そして東へ去って行った9月に始皇帝が亡くなるのです。ところが上述のように『史記始皇本紀』には惑守心は前年の始皇三十六年(=BC211年)の天象と書かれていますが,なぜ1年ズレているのでしょうか?単なる記載ミス?それとも暦変換の間違いなのでしょうか?それとも・・・?ここで注目すべきは『漢書天文志』の次の記載です。
十二年の春熒惑が心宿に留まった。四月,天子が崩御した。
すなわち高祖劉邦の没年BC195年にも類似の天象が起こっていることです。火星はこの年の初から7月まで,心宿(さそり座の西部)ではなく宿(てんびん座)でほとんど停止しています。3月4月は逆行中,5月末より順行に転じ,心宿に向います。病に伏した劉邦は「四月甲辰に崩じた」と記されていますが,この日を干支をもとにして求めると6月1日に当たります。やはり火星が逆行から順行に転じたころ亡くなっているのです。漢の歴史官・天文官にとって惑星の徘徊は初代皇帝崩御の兆候と思いたかったでしょうが,現王朝の創立者と前王朝の暴君が同じような天象のもとで亡くなったとは書きにくかったので,始皇帝没に関する天象を1年繰り上げて記したのかもしれません。 ちなみに高祖劉邦の皇后で悪名高き呂后が亡くなったBC180年8月18日にも火星はアンタレスの側にいました。
 惑星が順行留逆行を繰り返す(だからこそ惑星)のは衝の前後で,火星の場合その周期は2.135年です。これを7回繰り返すと14.948年,15年には約19日足りない。すなわち15年後には約19日前に衝が起こることになります。また地球は1日~1度公転しているのでこれは約19度に相当し,衝の起こる位置もこの角度だけ西に移動していることになります。
 BC210年4月下旬  アンタレス付近
 BC195年4月上旬  てんびん座α星付近
 BC180年3月中旬  スピカ付近

 次回の惑守心は2016年の春から夏にかけて起ります。火星がてんびん座からアンタレスあたりを東へ西へ徘徊します。は5月22日で,7月に順行に移り,8月25日ころアンタレス最接近する様子を眺めましょう。なお火星が地球へ大接近するのは2018年8月1日,その時火星はいて座に進んでいます。

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