歴史の中の彗星
           作花一志 「天文教育」 3月号 2005

0.はじめに
 2004年はニート,リニアのダブル彗星が,2005年の新年にすばると並ぶマックホルツ彗星が話題になった。1996年には百武彗星、1997年にはへールボップ彗星(右図:ダイニックアストロパーク天究館提供)と連続して大彗星の雄姿を眺めることができた。筆者が想い出すことのできる最も美しい彗星は、1976年3月6日の早朝,東の空に見たウェスト彗星だ。その姿は決して「ほうきに乗った魔女」ではなく,長い髪をたなびかせ天を飛んでいく「曙の女神オーロラ」そのものだった。
 彗星の「彗」はほうきの意で,その和名もホウキボシである。他にも「鉾(ほこ)星」,「穂垂れ星」などとも呼ばれた。また,英語の comet は「長い髪の星」という意味である。長い尾を引きながら天空を駆けていく彗星は古代より私達に驚異とそして感動を与えてきた。しかし洋の東西を問わず不吉なものとされ恐怖の的だったようだ。Yeomans には歴史上の大彗星がまとめられおり,そのうちから−3等より明るかった,すなわちヘールボップ彗星より2等級以上も明るかった,ものを下表に載せた。最右欄は観測できた日数で,昼間でも見えた記録のある彗星には*印をつけたが,この 6 個以外にもいくつかある。

1.史記・漢書の中の彗星
  天文の古記録が最も多く詳しいのは,もちろん中国である。不確かながら,紀元前11世紀,商周革命の頃に彗星が出現した伝承があるそうで,実際にハレー彗星はBC1059年12月に回帰しているはずという(長谷川1985)。「史記」には春秋戦国時代,秦の刺きょう(龍の下に共)公十年,躁(そう)公元年(BC467年),さらに始皇帝の曽祖父である昭襄(じょう)王の時代(BC300年頃)に,そして始皇帝時代には4回も彗星出現の記録がある。

 記載はBC238年のほうが詳しいが、BC240年の件は最古の確かなハレー彗星の記録といわれるものだ。青年時代の始皇帝(当時はまだ秦王である政)はこの凶を吉に転じようという気持ちで眺めたことだろう。長谷川(1985)に載っている軌道要素にそれに基づいて軌道を計算してみると5月上旬,日の出前に東天に現れ,すばるの近くに見えた。その後北に向かい25日に近日点通過し,西へ向かいペルセウス座ぎょしゃ座を通り抜け6月初旬ふたごの北に達する。6月10日地球最接近の前後には朝晩2回見えていたはずだ。その後は日没後西天に見えるようになった。しし座からおとめ座の方向に進み6月末まで見えていただろう。
 漢の武帝時代(BC140−BC87)に彗星・流星・客星など天文記事が多いのは史記の成立時のせいだろうか。建元三年(BC138年)三月,四月,元封年間,太初年間の彗星出現は王族や周辺国の謀反と並べて記されている。その武帝は後元二年(BC87年)ハレー彗星が現れた年に没している。218年春,北空に現れたハレー彗星を見て曹操(155−220)と諸葛孔明(181−234)はそれぞれ我田引水の解釈をしたことだろう。五惑星の祝福で始まった漢王朝が滅亡するのはこの彗星出現の2年後のことである。

2.律令文書の中の彗星
 607年のハレー彗星は史上2番目の明るさであり,若き聖徳太子が渡来人から彗星の説明を聞いていたとも想像できるが,残念ながらそんな記録はない。わが国最古の彗星出現記録は「日本書紀」舒明紀にある。当時,唐と国家間交流が始まり遣唐船によって天文知識が輸入され始めたためか,彗星記録が3回もある。

 (みん)は小野妹子に従って隋へ留学し,帰国後は朝廷で活躍した僧であった。これらの彗星はいずれもハレー彗星ではない。 「日本書紀」の天武十三年秋七月に「壬申に彗星西北に出づ。長さ丈余」という記載はわが国最初のハレー彗星の記録である。この日をユリウス暦に換算すると684年9月7日となり,尾が10度以上も伸びていたということになる。記載はただこれだけという簡単なもので,その前後の記述は彗星と関係ない。占星台が作られた天武時代にしてはそっけない記事だ。
 わが国にはその次の760年(天平宝字三年)以外のハレー彗星出現は記録されており,平安時代には彗星の記録が増えてくる。陰陽師たちが業務として観測に励み,天変の記録を書き記したためだ。ハレー彗星が地球に最も近づいたのは837年(承和三年)であり,当然最も明るく大きく見え,早足で天空を駆け抜けていった。「唐書」の詳しい記録によると4月9日には1夜で80度も移動したそうだ。「続日本後紀」にも彗星は東南の空から天空まで延びていたと記されている。また989年のハレー彗星出現は天文博士の任にあった安倍晴明が観測したはずで,永延から永祚へ改元が行われた(臼井2001)。

3.タペストリの中の彗星
 アリストテレス(BC384−BC322)は彗星とは天体ではなく大気現象だと考えていたそうである(西村2004)。彼が書き記した現象とは,上記の秦の躁公元年に中国人が見た彗星と同じものらしい。ローマの博物学者プリニウス(23〜79)が「博物誌」の中で「暗殺されたカエサル(=シーザー)の霊が不死なる神々の霊の間に受け入れられたことを意味するもの」と記しているのは,「漢書天文志」に初元五年四月(BC44年5月18〜6月16日)に出現したと記されている彗星らしい。またエルサレムがローマによって陥落した66年に大彗星が現れたという伝承があるそうで,その正体は「後漢書」に載っている彗星(実はハレー彗星)かもしれない。
 一般にヨーロッパでは記録が簡略で,また欠落も多いが、1066年のハレー彗星出現は有名である。フランスのノルマンディーのバイユー美術館に有名な壁掛の刺繍「バイユーのタペストリ」がある。イングランド征服を記念して征服王ギョーム(英名ウィリアム1世)の王妃マチルダが侍女たちと作ったといわれている。実物は70mにもなるという長大なもので,美術史の教科書にも載っているが,同時代の日本や絵巻物に比べると何とも稚拙に思えてならない。そこには彗星出現に恐れおののくイングランド王のハロルドが描かれている。大杉(1994)によると
 1066年1月にイングランド王エドワードの死後,王妃の弟ハロルドが後を継ぐが,ノルウェイ王ハードラダおよびノルマンディー公ギョームが後継者として名乗りを上げた。三すくみの緊張の最中、4月16日に大彗星が現れ,イングランドは王も兵も戦意を喪失してしまう。ハロルドはノルウェイの侵入は何とか防いだものの,南から渡ってきたノルマンディー軍とヘースティングで戦って戦死する。残党を降伏させたギョームはイングランド王を名乗り12月25日にウェストミンスター寺院で戴冠式を挙行する。ここに英仏海峡を挟んでノルマンディー公がイングランド王を兼ねるノルマン王朝ができ,以降約400年間,ジャンヌダルクが現れるまで英国王は仏国王の臣下というか,仏国内に英国領があるしというか,両国の非常に複雑な関係が続いた。この事件の影の立役者はハレー彗星である。「アングロサクソン年代記」によれば、これまでイングランド人はこの彗星を見たことはなかったそうだ。
 この彗星出現について中国には4月2日から6月7日まで詳しい記録があり,北の空に非常に明るく見えたようだ。日本では治暦二年三月六日(=4月3日)に見え始めたと「諸道勘文」に記されている。また高麗・ビザンチンなど広く各国の歴史にも記載されている(長谷川1985)。

 彗星出現記録はこの年以降増えてくる。上表に載せた1577年の大彗星をティコ・ブラーエ(1546―1601)が観測した結果,ようやくコメットは天体と認められ,天文研究の対象となった。そしハレー(1656−1742)によって太陽系のメンバーと認められた。

参考文献

 長谷川一郎   「ハレー彗星物語」  恒星社厚生閣  1985
 坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 「日本書紀」   岩波書店
 大杉耕一    「見よ あの大彗星を」日経事業出版社1994
 小竹文夫・武夫 「史記」   ちくま学芸文庫 1995
 小竹武夫    「漢書」   ちくま学芸文庫  1998
 臼井正     「天文教育」Vol14 p66 2002