2004年はニート,リニアのダブル彗星が,2005年の新年にすばると並ぶマックホルツ彗星が話題になった。1996年には百武彗星、1997年にはへールボップ彗星(右図:ダイニックアストロパーク天究館提供)と連続して大彗星の雄姿を眺めることができた。筆者が想い出すことのできる最も美しい彗星は、1976年3月6日の早朝,東の空に見たウェスト彗星だ。その姿は決して「ほうきに乗った魔女」ではなく,長い髪をたなびかせ天を飛んでいく「曙の女神オーロラ」そのものだった。
1.史記・漢書の中の彗星
天文の古記録が最も多く詳しいのは,もちろん中国である。不確かながら,紀元前11世紀,商周革命の頃に彗星が出現した伝承があるそうで,実際にハレー彗星はBC1059年12月に回帰しているはずという(長谷川1985)。「史記」には春秋戦国時代,秦の刺きょう(龍の下に共)公十年,躁(そう)公元年(BC467年),さらに始皇帝の曽祖父である昭襄(じょう)王の時代(BC300年頃)に,そして始皇帝時代には4回も彗星出現の記録がある。
2.律令文書の中の彗星
607年のハレー彗星は史上2番目の明るさであり,若き聖徳太子が渡来人から彗星の説明を聞いていたとも想像できるが,残念ながらそんな記録はない。わが国最古の彗星出現記録は「日本書紀」舒明紀にある。当時,唐と国家間交流が始まり遣唐船によって天文知識が輸入され始めたためか,彗星記録が3回もある。
3.タペストリの中の彗星
アリストテレス(BC384−BC322)は彗星とは天体ではなく大気現象だと考えていたそうである(西村2004)。彼が書き記した現象とは,上記の秦の躁公元年に中国人が見た彗星と同じものらしい。ローマの博物学者プリニウス(23〜79)が「博物誌」の中で「暗殺されたカエサル(=シーザー)の霊が不死なる神々の霊の間に受け入れられたことを意味するもの」と記しているのは,「漢書天文志」に初元五年四月(BC44年5月18〜6月16日)に出現したと記されている彗星らしい。またエルサレムがローマによって陥落した66年に大彗星が現れたという伝承があるそうで,その正体は「後漢書」に載っている彗星(実はハレー彗星)かもしれない。
一般にヨーロッパでは記録が簡略で,また欠落も多いが、1066年のハレー彗星出現は有名である。フランスのノルマンディーのバイユー美術館に有名な壁掛の刺繍「バイユーのタペストリ」がある。イングランド征服を記念して征服王ギョーム(英名ウィリアム1世)の王妃マチルダが侍女たちと作ったといわれている。実物は70mにもなるという長大なもので,美術史の教科書にも載っているが,同時代の日本や絵巻物に比べると何とも稚拙に思えてならない。そこには彗星出現に恐れおののくイングランド王のハロルドが描かれている。大杉(1994)によると
1066年1月にイングランド王エドワードの死後,王妃の弟ハロルドが後を継ぐが,ノルウェイ王ハードラダおよびノルマンディー公ギョームが後継者として名乗りを上げた。三すくみの緊張の最中、4月16日に大彗星が現れ,イングランドは王も兵も戦意を喪失してしまう。ハロルドはノルウェイの侵入は何とか防いだものの,南から渡ってきたノルマンディー軍とヘースティングで戦って戦死する。残党を降伏させたギョームはイングランド王を名乗り12月25日にウェストミンスター寺院で戴冠式を挙行する。ここに英仏海峡を挟んでノルマンディー公がイングランド王を兼ねるノルマン王朝ができ,以降約400年間,ジャンヌダルクが現れるまで英国王は仏国王の臣下というか,仏国内に英国領があるしというか,両国の非常に複雑な関係が続いた。この事件の影の立役者はハレー彗星である。「アングロサクソン年代記」によれば、これまでイングランド人はこの彗星を見たことはなかったそうだ。
この彗星出現について中国には4月2日から6月7日まで詳しい記録があり,北の空に非常に明るく見えたようだ。日本では治暦二年三月六日(=4月3日)に見え始めたと「諸道勘文」に記されている。また高麗・ビザンチンなど広く各国の歴史にも記載されている(長谷川1985)。
彗星出現記録はこの年以降増えてくる。上表に載せた1577年の大彗星をティコ・ブラーエ(1546―1601)が観測した結果,ようやくコメットは天体と認められ,天文研究の対象となった。そしハレー(1656−1742)によって太陽系のメンバーと認められた。
参考文献
長谷川一郎 「ハレー彗星物語」 恒星社厚生閣 1985 坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 「日本書紀」 岩波書店 大杉耕一 「見よ あの大彗星を」日経事業出版社1994 小竹文夫・武夫 「史記」 ちくま学芸文庫 1995 小竹武夫 「漢書」 ちくま学芸文庫 1998 臼井正 「天文教育」Vol14 p66 2002