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創立物語

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1. 創立者 長谷川繁雄(1929〜1986年)

創立者の長谷川繁雄先生と長谷川靖子先生

創立者長谷川繁雄(はせがわしげお)は,1929年,兵庫県明石市の商家に生まれました。幼いころより読書を好み,勉強好きな少年で,また一方ではスポーツも得意とし,陸上競技の選手でもありました。第二次世界大戦中は学徒動員により,地元明石の川崎航空機工業株式会社(現在の川崎重工業株式会社)の工場で,戦闘機などの生産に携わったこともあります。戦中戦後の動乱の時期を,多感な中学生,高校生として過ごしたのです。敗戦による戦後日本の社会思想の大転換,すなわち,「自身が教えられた価値観が逆転した」ことが,外の社会よりも,自身の内面である詩や哲学を勉強し始めるきっかけになりました。そしてそれは,教育者への道を歩む原点となりました。

高校卒業後は,京都大学文学部に進学し,ドイツ文学とフランス文学を専攻しました。そして大学を卒業,哲学科に籍を置いて研究を続けた後,1957年には,奈良県吉野郡の山あいにある川上村立第三中学校に,教員として採用されました。着実に,「教師」という職業の第一歩を踏み出したのです。

繁雄と中学校の生徒たち

繁雄と中学校の生徒たち

3年生約30人のクラスの担任となった繁雄は徹底して友情の大切さを教え,また授業中には人生をどう生きるかという「生」の問題に言及し,生徒たちに「自我のめざめ」を促しました。卒業時に「人生と幸福」をテーマに作文を書かせたところ,それぞれの生徒が素晴らしい文を仕上げました。それはまさに生徒たちの鮮明な成長の記録でした。繁雄はこの時,人間形成教育への取り組みこそが自らの生きがいであると胸に刻んだのです。

ところが,その翌年,教育方針をめぐって上司や教育委員会と激しく対立し,「私は,自分で自分の学校を創る」と宣言して,半ば喧嘩別れ同然で中学校から去ることになりました。繁雄は,たとえ相手が上司や教育委員会であっても,「自分の信念を曲げてまで迎合することは許せない」という性格の持ち主でした。


2. 創立者 長谷川靖子(1932年〜)

川上村にて

川上村にて

もう一人の創立者である井上靖子〈後の長谷川靖子(はせがわやすこ)〉は,1932年,和歌山県和歌山市に生まれました。幼少のころより勉強好きで天体に興味があり,和歌山の澄んだきれいな夜空を眺めることを楽しみとしていました。父親が,男女の区別なく才能によって自立させることを子育ての信念としていたことも影響し,靖子は封建的な観念を持たず,従来からある女性の世界観にとらわれない自由な生き方を早くから考えていました。しかし,戦後の動乱期に思春期を迎えた靖子は,目的を失った世相の乱れを強く悲観し,人生から逃避するがごとく科学の殿堂に憧れ,学問・研究に人生を傾けようとしていました。ちょうどそのころ,湯川秀樹博士の日本最初のノーベル賞受賞というニュースがあり,理学研究者として生きていこうという意志はことさら強くなりました。

高校卒業後の1951年に,京都大学理学部に進学し,宇宙物理学教室へ入ります。宇宙物理学教室においては,初の女子学生でした。靖子は,研究者になることを夢見て,大学院にも進み,日夜学問に励んでいました。

そんな折,和歌山市の実家で歯科医院を営んでいた父親が急逝してしまいます。1957年のことでした。家族思いであった靖子は,家族の生活費や弟妹の学費を捻出しなければならないと考え,学問を中断し実家に戻りました。そして,歯科医院は勤務医に任せる傍ら,得意の数学を活かし,「井上数学塾」という塾を実家に開設して高校生たちに教え始めました。


3. 私塾「和歌山文化研究会」,繁雄と靖子の結婚

そこへ,“吉野の川上第三中学を退職した”という繁雄からの知らせが来ます。大学時代より,靖子と結婚する意思を持っていた繁雄は,和歌山の靖子を訪ね,結婚と塾の共同経営を申し出ます。

靖子は,かつて大学時代,繁雄と同じ下宿に住んでおり,時間の経つのも忘れて,二人で,人生論,文学論をたたかわせていたのでした。その時以来,人生を共有できるベストパートナーとして繁雄を認めていた靖子は,繁雄のプロポーズを受け入れ,二人は結婚し,塾の名前を「井上英数塾」と改め,塾の共同経営がスタートします。

和歌山文化研究会の玄関にて(左端が靖子)

和歌山文化研究会の玄関にて(左端が靖子)

6畳一間の「井上英数塾」はあまりに手狭だったので,1年後,武家屋敷跡の一隅を借り,二人で天井にベニヤ板を張り,近所の大工さんに作ってもらった白木の机に,二人で仕上げのニスを塗るなどして,手作りの教室を築き上げました。そして塾名を「和歌山文化研究会」(略称 和文研)と改め,中学生・高校生向けの私塾教育を始めました。

生徒募集のパンフレットを作り,二人で各中学校の前で生徒たちに配りました。ある時,市内でナンバーワンの中学校の前で,二人で生徒募集のパンフレットを配っていると,校長から呼び出しがかかり,“校門で営利事業の宣伝活動をしてはいけない”と叱られました。その時,繁雄は“営利を目的とはしていない,昭和の時代の新しい塾,江戸時代末期の「松下村塾」の現代版をつくるのだ”と答えました。校長は呆気にとられた顔で二人を見つめ,それから天井の方を向いて口を大きく開き,ハッハッハッと笑いました。大学時代は詩や哲学の内面世界に生きていた繁雄が,社会の教育者になり始めたことを,靖子は感じました。

このころ,京大親学会(学生の同好会)が高校進学模擬試験である「アチーブメントテスト」を全国的に展開しつつありました。二人はこのテストの和歌山県全域への展開を意図し,靖子は主として和歌山市内,繁雄はスクーターで和歌山県下全域の中学校をまわり,県内約80%の中学校で親学会模擬テストの学校単位(全員受験)での参加申込を獲得しました。二人は共に京大出身者であり,テストには「京大」のブランド名が付けられていたこともあり,各中学校の信頼を得たのです。京大親学会は,大学当局から公認を受けた「サークル」ではありましたが,名古屋大学や奈良女子大学,大阪大学,山口大学,九州大学にあった同様の組織と連携していたほか,金沢大学,岡山大学,香川大学に支部を置き,広範囲な学生ネットワークを構築し,西日本を中心に中学,高校生ら受験生向け模擬試験や通信教育を展開していました。構成員の京大学生は100名以上を擁し,1960年当時の経営規模は1300万円(現在なら2.5~3億円)にも達していました。和文研は京大親学会からの「委託」相手でしたが,圧倒的な受験者数により,京大親学会への経済的貢献度は大きいものがありました。この模擬テストの実施は,資金面においても塾生募集面においても,二人の私塾発展のベースとして活用できたことを考えると,和文研と京大親学会は相互発展の強い絆で結ばれていたと言えます。

和文研は発生のルーツにおいて,京大と深いかかわりを持って発展してきた私立教育機関であることが分かります。

模擬テスト実施により充分な資金を得て,1960年に和歌山妙法寺の境内に文化事業を目的に建てられたビルの2階に教室を移転します。京大親学会テストの影響から「和文研」の名前は十分に高校新入生の間に浸透しており,新教室には約200名以上の優秀な塾生が集まりました。二人が実施した京大親学会模擬テストの結果から,入塾生の能力状況は総体的に把握できていたため,塾生に対する教育方針は彼らの入塾時には固められていました。塾の評判を聞きつけて,遠い地域からも生徒が通ってきました。「家業が倒産して授業料は払えないけれど,この塾で勉強したい」と願い出た生徒もいました。二人は,その授業料免除を受け付けました。この生徒は3年後,東京大学に合格し,電子工学科に一番の成績で進んだのです。これらの経験を重ねながら,繁雄と靖子は,二人で力を合わせ教育に携わっていく道を歩むことを改めて決意していきました。

繁雄と塾生たち

繁雄と塾生たち

繁雄は,日本の偏差値教育から生まれた独特の“受験英語”を嫌いました。それは,国際人として活躍できる英語能力の養成でもなく,英文学を理解するための英語能力の養成でもないと確信していたからです。繁雄は細かい文法や,一つひとつの単語の意味にとらわれず,まず文章の大意をつかむことを主眼にしました。入学したばかりの高校1年生に教材として,エドガー・アラン・ポーの『アッシャー家の崩壊』を与えるなど,学習塾でありながら,ほかの受験塾とは一線を画した英語能力の養成を繰り広げました。さらに繁雄は,英語教材を使いつつ,生徒に文学を教えることを怠りませんでした。文学とは,いろいろな状況設定においてさまざまな人間が,人生をどう感じどう考え生きるかという「人間の生き方の追求そのもの」であり,繁雄は文学を通して,生徒たちを自我にめざめさせ,理想を描かせ,主体的な自分の生きる道を考えて発見させていくという人間教育を,英語教育と並行して実践したのです。

靖子も繁雄と同じく,大学受験を目的としたノウハウ式教育を徹底して嫌いました。単なる解法のテクニックを教えることは数学の本質からはずれた全くの邪道であり,論理的思考力やひらめく直感力の養成とも無縁です。靖子は,時には一段上の大学教養課程の数学にも言及し,より高みから望んだ時,より低いレベルの内容は簡単に理解できること,さらにまず全貌を直観的に把握した時,細部が鮮明に見えてくること,ひとつの解に至る方法は,必ずしもひとつとは限らないことなどを教えました。

数学者たちの魂や心の歴史を生徒に話すこともありました。それらは多感な高校生の心に訴え,時には,文科系進学の生徒をも数学のとりこにしていきました。このような教育活動の中で,単なる教科指導を超えて,高校生たちに数学への関心を喚起させ,才能を開発させていく“学問する心”を育てていったのです。

繁雄が英語教育を通して,人間形成の教育を実施し,靖子は数学教育を通して,才能開発の教育を実施し,若い二人の私塾からは,東京大学,京都大学をはじめトップレベルの大学への進学者が,どんどん増加していきました。


4. 京都に「和文研セミナー京都教室」

塾の経営状態も安定してきた1962年,靖子は「もう一度研究の道に挑戦したい」という希望を持ち,京都大学大学院に復学します。そして,コンピュータを使った科学技術計算を始めます。それに伴い二人は,京都市左京区の京都大学のすぐ近くに「和文研セミナー京都教室」として私塾の分校を開設,京都市内の高校生の募集を開始しました。「和文研セミナー京都教室」は,周辺の各種予備校や進学塾とは一線を画して,学問の本質に根ざした才能教育を実施し,京都大学進学志望者の塾として評判は次第に高まっていきました。


5. 私塾におけるコンピュータ教育の開始,「京都コンピュータ学院」の起源

京都大学大学院理学研究科博士課程に在籍し研究を進めていた靖子は,1963年5月,当時すでに京都大学工学部に設置されていたコンピュータKDC-1(機械語によるプログラミング)を使用し,科学技術計算を行っていました。また,学術研究のために使用が許可された大型計算機IBM7090の利用を目的として,「FORTRAN研究会」という会を立ち上げました。同研究会が主催する講習会は,二人が開設した「和文研セミナー京都教室」において,京都大学の若手研究者を対象に,定例的に開催されるようになります。この私塾においてコンピュータ教育を開始した1963年こそ,京都コンピュータ学院の起源の年です。まだ,日本のどの大学にも情報系学科が設置されておらず,コンピュータ教育が実施されていなかった時代だったため,日本語のコンピュータ関連の書物は全くありませんでした。そのため当時の講義は,米国のメーカーの英文のマニュアルや海外から取り寄せた洋書をもとに行われていました。

1965年12月,国産大型コンピュータ第一号機が東京大学と日立製作所の協力で完成し,靖子は,開発者の東大・森口繁一教授に乞われて,他の領域の計算機チャレンジャーの若い研究生たち6,7人とともに,連日のテストランに加わりました。最後に森口教授が「これからは計算機利用者が続出していくだろうが,あなた方は西部開拓者(パイオニア)の精神でがんばってほしい」と述べられました。この言葉は靖子の心を強く刺激しました。

コンピュータ技術者養成に尽力(右から3番目が靖子)

コンピュータ技術者養成に尽力(右から3番目が靖子)

やがて,同会は「京都ソフトウェア研究会」と改称され,京都大学の研究者以外からも参加者を募り,各種の「電子計算機プログラミング講習会」を開催するようになります。講師には,京都大学の若手学者が加わりました。この講習会で行われた「科学技術計算プログラミング高度技法」,「数値計算法」,「線型計画法」,「いろいろなアルゴリズム」,「シミュレーション」,「医学における電算システムの応用」などのアプリケーション・ウェアの講習は,わが国最初のものとして,京阪神地区の各大学の研究者たちにその評判が広まっていきました。受講者は,京都大学の全学部の若手教官・研究員・大学院生を中心として,同志社大学,立命館大学,神戸大学等の教授や助教授,助手,事務職員たちでしたが,回を重ねるうちに,島津製作所,立石電機(現在のオムロン),三菱重工業,三洋電機等,京都市内および近郊の民間企業の研究所からの受講者も次第に増え,一大センセーションを巻き起こしました。


6. コンピュータ技術者を養成する日本最初の全日制の学校設立を企画

設立当時の洛北校玄関

設立当時の洛北校玄関

その後数年を経て起こったコンピュータ・ブームにより,講習会参加者の層は,大学生を含む多くの一般市民にまで広がりました。こうした中,繁雄は,今後急速なスピードで情報化社会が到来することを予見し,コンピュータが生活に浸透していくことを予想しました。そして,そのための人材需要に応えることは,日本の,ひいては人類の発展に大いに貢献できることだと確信します。また,受講者に対して日々,技術指導にあたる中で,学歴偏重主義の社会における高校卒業者たちの不遇な状況を切実な問題として感じ取るに至りました。たとえ高学歴でなくとも,世の中の発展に役に立つ技術を身につけ,自分の力で自分の道を切り拓いていくことができる人物を育成していくこと,これこそ,今後の自分たちの使命であると繁雄は考えました。そして,絶対にコンピュータ技術者を養成する日本最初の全日制の学校を設立しなければならないと決心し,靖子に全面協力を要請します。研究か教育か二者択一を迫られた靖子は,より社会的価値を生み出すであろうコンピュータ教育を,コンピュータ利用のパイオニアとしての自分の使命であると考え,コンピュータ教育の道を選択しました。そして靖子は,不二家,服部時計店(現在の株式会社 和光)の処理プログラムや,当時の堀場製作所,三菱自動車の環境改善のための排気ガス測定プログラムなどの作成を請け負ってアルバイト料を稼ぎ,学校の設立資金としました。


7. 全日制「京都コンピュータ学院」

TOSBAC-3400導入(左から2番目が繁雄)

TOSBAC-3400導入(左から2番目が繁雄)

靖子が教学面を担当・主導し,京都大学の宇宙物理学研究者グループの仲間たちが講師陣として加わり,1969年8月,大学に進学しない高校卒業者に対して情報処理技術専門教育を行うことを目的とした,全日制「京都コンピュータ学院」が開設されました。京都という日本の古都に,民間人の手によって,わが国最初の全日制の私立コンピュータ教育機関が誕生したのです。

京都コンピュータ学院は,“専門学校は技術の教育”という社会通念を破って“学問と技術の統一教育”を教育理念としています。開学当初の学生は,わずか40名でした。当初は,靖子がメーカーの依頼を受けシステム開発を担当したミニコンを学内に設置して教育用に使いましたが,二人は中型機以上の機械の導入を切望しました。

しかし若い二人には,十分な資金はありませんでした。個人による,数億円もするコンピュータの導入は,前例がありませんでした。しかし二人の理想と情熱に感動した東芝の好意で,当時トップクラスとして評判だった「TOSBAC-3400」が,レンタルされることになりました。この大規模なコンピュータが設置された時,靖子はうれしさのあまり,そのフロアでワルツを踊ってしまったといいます。繁雄は,その靖子に向かって言いました。「僕はかつてお金がなく,君にダイヤの結婚指輪を贈ることができなかった。このコンピュータは,君に贈る僕からの結婚指輪だ。君に一番ふさわしいものだ」。

数年後,外資系のユニバック(現在のBIPROGY)に,二人で超大型コンピュータ導入の申し出に行きました。同社の営業部長は二人の話を聞いた後,部下に「あの二人はなかなかユニークでビジョンがしっかりしている。応援してやれ」と指示し,超大型機が導入されることになりました。

このような大企業の協力・支援が相次ぎ,その当時,大学においても,大学院生以上の限られた研究者しか使用できなかった大型計算機・中型計算機を学校に各種導入することができたのです。これらは,学生の実習用に24時間開放されることになりました。こうして,開学当初から,「常に最先端」の教育が実施されていったのです。


8. 繁雄の死

繁雄が生前愛誦したゲーテの言葉を刻んだ詩碑(知恩寺墓地)

繁雄が生前愛誦したゲーテの言葉を刻んだ詩碑(知恩寺墓地)

繁雄が予見していたとおり,そして靖子が想像していたとおり,コンピュータは世の中に瞬く間に浸透していきます。パーソナルコンピュータの各種職場への普及は目覚ましく,コンピュータ技術者は引く手あまたの状態となっていきます。京都コンピュータ学院の卒業生たちも皆,各業界に就職していきました。例えば,老舗のゲーム会社である任天堂は,1980年代初頭に本学の卒業生を大勢採用し,コンピュータゲーム業界に参入しました。任天堂のその後の発展はよく知られているところです。

京都コンピュータ学院は,「ただ単に技術のみに長けた人材」ではなく,「応用力もあり人格的にも優れた人」の育成を目標としました。本学の教育を受けた卒業生たちは,各企業から「次第に底光りがしてくる人物」と評されました。

繁雄は,卒業生が活躍する様子を聞き続け,ますます学校を発展させなければならないと使命感を燃やして資金の調達や施設設備の拡充,講師・学生の募集に東奔西走していました。そして,体に無理を重ねたためか,1986年4月,病に倒れてしまいます。癌に侵されていたのです。治療の甲斐なく,1986年7月2日に,繁雄は56年の生涯を閉じます。学校の長として強力なリーダーシップを発揮していた繁雄の死は,教職員,学生に多大な衝撃と深い悲しみを与えました。学生や卒業生5000人以上が参列した葬儀の後,繁雄は京都市左京区の知恩寺の墓地に埋葬されました。本学では繁雄の命日をその号である「閑堂」にちなんで「閑堂忌」と名付け,毎年創立者の遺徳を偲ぶ記念行事を開催しています。


9. 海外コンピュータ教育支援活動

ペルー共和国へのパソコン寄贈式に臨む靖子

ペルー共和国へのパソコン寄贈式に臨む靖子

繁雄の死を乗り越えて,靖子はさらなる発展と日本・海外への貢献を誓います。京都コンピュータ学院が,教育を通じてコンピュータ文化の創造に関わってきたという趣旨を適用し,1989年,当時まだ近代情報化社会には程遠かった国々,発展途上国および東欧圏に対して,本学が保有し使用した8ビットパソコン2000台を有効活用する,コンピュータ教育支援活動を企画します。1990年から1995年にわたり,タイ,ガーナ,ポーランド,ケニア,ジンバブエ,ペルーの6ヵ国に対する支援活動を実施し,大きな成果を挙げました。その後さらに,16ビット,32ビットパソコン約1000台を支援用に追加しました。1996年以降,本活動を新たな国々へ拡大させると同時に,これまでの寄贈国に対し,第2次支援も実施しています。また,中国に対しては,1996年より,天津・西安・北京における三大学との姉妹校提携のもとに,技術支援を進めました。

このような支援活動は高く評価され,靖子は,2006年,財団法人日本ITU協会より「国際協力特別賞」を受賞しました。この受賞を記念して,キルギス,ボスニア・ヘルツェゴビナ,エリトリア,ウガンダ(第2次)の支援に着手しており,現在までに支援対象国は26ヵ国に達しています。


10. 未来に受け継がれるパイオニア精神

京都駅前校

京都駅前校

1960年代,「研究者やトップビジネスマンたちだけが使う巨大な装置」であり,「電子計算機」と呼ばれていたコンピュータが,今日のように小型化が進んで性能が向上し,生活に必要不可欠なものになるとは,どれだけの人々が想像したでしょうか。京都コンピュータ学院の創立者である長谷川繁雄と長谷川靖子は,その可能性をいち早く見出し,情報処理技術者を育成しようという大いなる情熱,パイオニア精神を抱きながら,全く新しい教育の場を創り上げました。日々進化を続けたコンピュータの技術は,ITと呼ばれるようになり,人々の暮らしを支えています。学校が創立した1963年から61年の歳月が流れた今も,京都コンピュータ学院で学び,巣立っていった卒業生たちは,IT業界その他さまざまな分野で活躍しています。創立者の情熱,パイオニア精神は,学生,そして教職員に脈々と受け継がれているのです。

2004年には,京都コンピュータ学院の伝統と実績を継承し,日本最初のIT専門職大学院として京都情報大学院大学を開学しました。



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