五星聚井
左は中国の歴史書「漢書高帝紀」の記述である。その意味は
――漢元年の冬十月に五惑星が井宿の東に集合し,このとき沛公が覇上に到着した――
 今を去ること2200年,秦が滅び漢が興るころの話である。沛公とは後に漢の初代皇帝高祖となった劉邦のことで,彼が秦の首都咸陽近くの覇上に到着した時に水星・金星・火星・木星・土星が一堂に会したという。「漢書天文志」にはこのことは劉邦が天命を受けたしるしである書かれ,またさらに古い史書である「史記」には年代は記されていないが,漢が興る時に五星聚井が起こったという記事があり,昔から重視されていた有名な天文現象らしい。中国では星座を○○宿といい,井宿とはふたご座の南部に当たる。東井とはふたご座からかに座にかけての天域である。
 当時の状況を世界史の教科書をもとに調べてみると
  BC210・・・始皇帝の死
  BC209・・・陳勝・呉広の乱,項羽や劉邦も挙兵
  BC206・・・秦王子嬰(三世皇帝)劉邦に降伏
  BC202・・・劉邦即位

 漢書では元年とはBC206年を指すらしい。この時の木火土金水の5惑星会合については,魏のころから色々調べられていて,BC206年にはそんな天体現象は起こらなかったことが確められている。実際,木星・土星はふたご座周辺にいるが,火星はみずがめ座・うお座辺りにある。そこで数字の写し間違いではないかとか,五星とは一般に惑星のことで必ずしも五つの惑星の集合を意味しないとか,そもそもこの記述は後世の捏造であるとか様々な議論[5]がなされているが,果して秦末漢初に五惑星会合は起っていないものだろうか?
 BC300年からAD1年までの300年間,5惑星が25°以内に収まる会合を捜してみると5回見つかった。そのうち2回は太陽と同じ方向なのでその姿は見られない。 

   年   月  日時        星座    角度(°) 
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BC245  1 24 ---  みずがめ    20 
  205  5 30 夕  ふたご・かに  21 
  185  3 26 朝  うお      7 
  145  7 28 ---  しし      10 
    47 11 29 朝  へびつかい    10 
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 ---は太陽と5惑星が同じ方向で観望不可

件の五惑星会合はBC205年の5月末に実際に起こっていた。しかも秦から漢の前半の間,これに匹敵するような五星の近接会合は他には起こっていない。薄明の西空に,プロキオンとポルックスとの間に水星・木星・土星が寄り添い,そこからししの方へ火星と金星が連なる。まさに彼らは井宿の東にっていたのだ...。
 しかしなぜ半年ずれているのだろうか?これから先は中国古代史の専門知識のない筆者の偏見に満ちた憶測である。 
劉邦はせっかく首都咸陽に一番乗りしたものの,後から圧倒的多数の軍を引き連れて来た項羽に首都を明渡し山中に潜む。その後数年間,彼らは相争うことになる。BC205年の5月といえば劉邦は項羽の前に連戦連敗を繰り返し,大陸を東へ西へと逃げ回っていたころだ。「現王朝開始の天命が下ったのだからそれにふさわしい時期でなければ」ということで漢の歴史家たちは平民出身の劉邦にハクをつけさせるため,この天象を彼が英雄としてデビューした前年に繰り上げて記載してしまった! 
五星聚井の年代の記載は「史記」(完成BC90年頃)にはなく,「漢書」(完成AD50年頃)になってからである。司馬遷はその時期が特定できなかったため,あえて書かなかったが,その後何らかの新資料が見つかったので斑固は年代を記載した。ところがこの資料は漢の元年がBC206年ではなくBC205年というものだった。実際史記の中にも漢の元年について種々の説が混在しているという[7]

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